☆★☆ たこやきめぐり 第13回 ☆★☆

感動のひととき「たこ焼懐石」
− たこ昌 その3 − 

熊谷 真菜

 そのうち山路社長は何かもっとおもしろいことをしたくなる。 海苔の将来を考えても、ロマンがなかった。というのも海苔は養殖業者から、 できあがったものを入札で仕入れるため、製品の善し悪しは天候などに左右され、 なかなか一から関われるものではなかった。 古い体質の海苔業界ではない何かもっとおもしろい世界を社長は描くようになる。

 大阪ミナミで生まれ育った大阪人として、大阪みやげに注目した。 食いだおれの町というものの、みやげとしては、塩こぶや粟おこしぐらいしかなかった。

 もっと何か適切なものがあるはずだ。 そうたこ焼である。たこ焼を大阪みやげとして売り出したい、社長はその思いであふれた。 焼き方、保存、売場、発送形態。クリアしなければならない問題は山積していた。 そして12年前、なんとか納得できる形が整った。2トン車2台分のたこ焼は、 試作して捨てたという。

 最初は近鉄百貨店で販売した。たこ焼の本場で、一箱(10個)千円もする冷凍たこ焼を だれが買うだろう。3箱売れるのに1日かかった。

 みやげならということで、大阪空港に置いてもらうことになった。 いちばん悪い場所ながら、スチュワーデスの口コミで一気に話題性のある商品に 変身していく。 昭和62年7月には、天神祭に来られた現皇太子へのおみやげに選ばれ、その年末には、 宮内庁からのお達示で社長手ずから、美智子皇后へ献上する機会を得た。

 社長は考えた。従来のたこ焼屋さんではないたこ焼屋を展開したいと。 こうして名実ともにパワーアップしたたこ昌は、8年前この地にたこ焼懐石の店を開く。 この場所は、たこ焼を焼くスタッフの集めやすい立地だから。 社長が小学生の時代は、すぐそこから海がはじまり、よく泳ぎに来ていた。

 いわゆる・・・

続く...

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